今月のB!

買ってきました。


今月も盛りだくさんですが、目玉はやはりダスボン(というか森重)のインタビューDA!


一読して、う〜む、とまた森重に想いをはせる。


いや、良かったんすよ。
皆まで言わず核心にくるとヒョイっと話をそらす戸城をフォローする形で客観的に説明する森重の話は、読んでる方としては非常にわかりやすいし。


ただね、あまりに的確で完璧すぎるのではないかと。


本来、主観の生物である「人間」が、機械じゃあるまいし、あまりに客観なのはどうかと思うんですよ。精神衛生上。


ズバリ言おう、森重、分析しすぎだってば。


「まあ、特定のファン以外の人が例えば初期のZIGGYを聴いてもさ、音は古いし、技術は未熟だし、そういう意味で、現行の音楽と比較すべきものではないよ。大体、それが好きな人はそこにノスタルジーも入ってるし。だからそれでいいんだよね。」


森重ぇ〜!(泣)


たぶん、森重の頭の中には何人ものミニ森重がいて、一つの考えが浮かんでも、それを様々な角度から見てしまう、というか、森重レベルくらいになると、「見ずにはいられない」思考回路になってるんじゃないかと思う。


ミスチル桜井が言うところの、「様々な角度から物事を見ていたら 自分を見失ってた」状態(イノセント・ワールド)


言ってること自体は、まさしくその通り、なんですよ。
言ってることの中身だけを取り出して見れば、何も間違ってない。


ただね、そういうことを「意識する」「考えてしまう」、さらに「言葉にする」、果ては「歌詞にする」というのはどうなのかと。苦しくないかと。


おそらく、こういう人達にとって「表現」とは「自分のなかに渦巻く感情を昇華すること」と限りなく近いんじゃないかと思う。ほとんど修行。自分相手の。


「表現」にはもっと色んなベクトルがあるはずなんだけど、たぶんそれも自覚してるはずなんだけど、修行が終わるまではそれができない、というか、本人にとって、今は修行の方が重要なんだと思う。


ただね、外から見てるとその姿が痛々しいんすよ。ストイックすぎて。


「そういう意味で」とか「大体」とか「だからそれでいい」とか。


言葉が的確すぎるのよ。
逆にいえば、的確じゃない言葉は発せられないんだと思う。許せないんだと思う、ストイックだから。


だから戸城みたいに、
「スゲェ、俺の才能はポールを超えた!とか思っちゃったよ(笑)」
とか、どこまで本気かわからない軽口は叩けない。


叩きたい、とは思ってるかもしれないけど、そう意識しちゃった時点でアウト。作為がある時点で意味を失う。言えば逆効果になるし。こうして自意識との戦いはどんどんグロテスク化・・・。




ま、想像ですけどね。